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下條村の歴史・沿革、下條氏について

下條村

下條村

大山田神社

大山田神社

下條村は、下伊那に2社しかない式内社の大山田神社が置かれ、奈良時代より拓かれた村です。
村名は、室町時代のはじめ甲斐の国(現・山梨県)からこの地に入り、室町中期から戦国期に全盛を極めた下條氏に由来します。
江戸時代14村あった村が明治8年、合併の気運が高まり、睦沢村(むつざわむら)と陽皐村(ひさわむら)の2村となりました。その後、有力町村を造成することを趣旨に県の町村合併案が策定され、これに基づき、明治22年4月1日両村が合併して現在の下條村が誕生しました。

下條氏は、甲斐源氏小笠原氏の分流です。
初代下條伊豆守源頼氏が、観応(1350年)の初年頃、この地方を支配し古城に住んでいましたが、5代で絶えたので信濃守護職小笠原政康の三男、康氏を養子に迎え下條氏を再興し、6代となりました。
康氏は松本小笠原氏の応援を得て力を伸ばし吉岡に城を築くなど、下條氏の基礎を固めました。

その子7代家氏は、文武に勝れ、信濃守護職小笠原氏の代官を勤め台頭し、京都方面から宮大工、仏師、軍師など多くの文化人を招き、この地方に文化の曙光をもたらしました。
それらによる式内社大山田神社と古城八幡社に現存する重要文化財指定の社殿四棟は、室町時代の様式を伝えるもので、地方には珍しいものです。
その後8代9代と栄え、9代信氏は、甲斐の武田信玄の妹を妻に迎え、武田軍の伊那先方衆として、三河方面に軍功を現しますが、織田信長に追われ三河に逃亡し、徳川家康を頼って兵を挙げ再び吉岡城主となりますが、12代牛千代の時(天正15年(1587年)3月)改易となり、下條氏は滅亡し、吉岡を去りました。